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貞山・北上・東名運河事典

仙台藩主伊達政宗公の時代から約300年間にわたり、開削と維持が続けれてきた貞山運河(木曳堀・御舟入堀・新堀)。 明治期の国際貿易港の整備にあわせ開削された東名・北上運河。 南の阿武隈川と北の北上川とを結ぶこれらの運河の全容を紹介します。 また、『不撓不屈-品井沼干拓300年-元禄潜穴・明治潜穴・わらじ村長 鎌田三之助』も併せ掲載しています。

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6-(2) 野蒜築港跡  のびるちっこうあと     
                                                               所在地:東松島市
 
 
1)野蒜築港とは
 「奥州中原の地に一大貿易港をつくり、ひとり宮城や東北のみならず、東日本の広く国内、国外に結ぶ拠点港」として、長崎港に先だつこと4年、横浜港に先だつこと11年の明治11年7月に、わが国初の洋式築港として、宮城県鳴瀬町野蒜地先(現:宮城県東松島市鳴瀬)を中心として着工されたのが野蒜港である。
 その構想は初代内務卿大久保利通に、その設計は内務省御雇長工師のオランダ人ファン・ドールンによるものであった。明治11年10月8日蛇田村(現:東松島市矢本蛇田)高屋敷において、県令松平正直ら多数を招き、内務省土木局長石井省一郎、同土木局出張所長早川智寛らにより盛大な起工の式典があげられた。14年1月8日、延長3里3町の野蒜運河(北上運河)の通船を祝い、翌年10月30日には内港口の東突堤延長173間、西突堤延長148間の完成をみ、17年2月には東名運河延長29町40間が開通した。
 しかし、17年9月の台風による暴風浪によって内港口突堤が被災し、これを契機として、遂に外港には手をつけることなく、中止、廃港への道をたどり、東北開発の大いなる灯を消し去るに至ってしまったのである。
 
■野蒜築港 内港と新市街地計画図
        (出典:北上・東名運河辞典)
  
(注) なお、明治30年代に入り、野蒜築港復興に向けて次のような計画図が作られている。
                                   
 
                                  
                                   ▲野蒜築港記念碑前の北上運河
                                 
                  
                                        ▲市街地跡
                                        
                          ▲市街地跡の老松
 
 
2)内港口突堤
 
 野蒜内港は鳴瀬川の河道を利用したもので、水深を大干汐面以下14尺とし、内港口には東堤173間、西堤148間を設け、突堤間隔を38~59間として船舶の出入航路とした。
 突堤の構造は、天端は大満汐面すなわち大干汐面上4尺、天端幅は27~45尺とし、高さ5尺の沈床を数層敷設した上を捨張石で覆ったもので、外洋面の法勾配は凡そ2割1分であった。捨張石の大きいものは200才もあったという。
 この突堤が明治17年9月15日から16日にかけての台風による激浪で被災をし、野蒜築港中止の端緒となるのである。
 野蒜築港名残の突堤は被災しながらも復旧され連綿と命脈をたもっていたが、昭和22年9月のカスリン台風による洪水で、東突堤の付け根の部分が被災流失し、ついで翌年9月のアイオン台風でこれが増破し、干汐時に突端部100米がわずかに姿をみせるまでとなった。また西突堤も損障甚だしくわずかに形をとどめているに過ぎなかった。突堤は河口維持として必要であり、このため災害復旧事業として県土木部の手によって昭和28年から30年にかけて改築復旧された。
 現在河口にみられる導流堤の下に、かつての明治の突堤がある。
 
 
3)新鳴瀬川と橋台跡
 
 野蒜港は鳴瀬川河口を内港とし、内港口から宮戸島方向に防波堤を築き、潜ヶ浦から洲埼浜地先を外港とするもので、内港の船溜面積約9千 坪、水深は干汐面下14尺としている。鳴瀬川は内港医事のため、河口から8丁上流地点にて東方に分派させ、沖の明神岩から東方5丁の地転に新河口を開き、突堤を出して河口維持をはかる。これが新鳴瀬川といわれるもので、巾30間、長さ600間、鳴瀬川の分派地点には旧河道に長さ100間、天端巾2間、天端高零尺の潜堰を設け、上水のみを内港におとすようにした。
 この新鳴瀬川と旧川に挟まれた土地10万5千坪が市街地の予定地であった。新鳴瀬川には3本の橋梁が架けられた。これが新鳴瀬川橋で、上流から「上の橋」、「中の橋」、「下の端」とよばれたという。また新鳴瀬川と北上運河の交叉西側(船溜側)には閘門が設けられた。これを船溜閘門または新鳴瀬川閘門といった。
 現在これら施設のうち残っているものは、新鳴瀬川の一部と市街地跡地のみである。
 新鳴瀬川橋は橋台のみが残っており、これは表面を煉瓦で畳んだもので、その煉瓦色の美しい橋台は、当時の華やかさを十分に偲ばせるのもがある。
 この新鳴瀬川は、明治12年11月掘削にかかり、15年12月には長さ100間の河口突堤が完成し、満3ヶ年の月日を要して開削されたものである。
 
                  

                   ▲新鳴瀬川に残る橋台

 

 

4)黒澤敬徳碑 くろさわよしのり ひ

 

 元野蒜市街地の公園跡地の一角に、第二代内務省土木局出張所の長である黒澤敬徳の碑が建っている。野蒜築港に殉じた人である。碑は老松と高藪に囲まれ、碑面は今は無い野蒜内港口に向かって建てられており、高さ3.17m、巾1.9mの大稲井石で、横書きに紀功之碑と篆書(てんしょ)してある。

 
                  
                  ▲黒澤敬徳碑と石製ローラー
 
 碑文は次のとおり。 
 
  紀功之碑
内務一等属黒澤敬徳碑     宮城県大書記官従六位和達孚嘉撰
眀治十六年二月八日内務一等属黒澤君歿矣 僚友追思其勞績建碑野蒜公園地 請文于余乃據状叙而銘之 君本姓
清水氏 諱敬徳 幼名幸太郎後改吉太郎其先遠江人 世居武之江戸祖父曰又次郎父曰瀨兵衛 皆仕幕府為都料匠
瀬兵衛生三子君其嫡長父歿襲職 慶應元年五月幕府西征君以都料匠従在大阪 兼陸軍築造部掾属尋轉工兵嚮導
官 眀治戊辰之變 還致職禄 去而隠于商更稱黒澤屋吉之助 遂以黒澤氏焉 既而官聞君長于工事二秊八月舉為
土木太令史 三秊晉權少佑五秊遷土木權中属歳餘晉中属 十秊又轉内務六等属眀秊官有野蒜刱港之議命君董工
事 野蒜在陸前桃生郡北上川繞其北鳴瀬川自西来 與石巻相接 東面大洋地勢彎環自成港澳 君乃承石井土木局
長旨據蘭國工師 杜崙之説 鑿運河以釃北上川 設閘門以節蓄泄築石堤以捍潮衝 其役至大其業至難觀者皆莫
不駭且危爲 而君勵精盡瘁率先工徒山于伐海于運 指揮得宜而應用之材不乏 若其運河閘門業已奏功 而石堤亦
告竣于 十五年十月於是内務卿山田公顕義臨而落之 嗚呼人之所駭且危而克成 之雖則依杜崙氏之計畫與服事
者之竭力 抑亦君董督之功居多爲 後數日君獲疾歸于東亰 遂不起享年四十有五 葬駒込蓮光寺 配須賀氏生一
男三女男 敬三嗣長女適某氏餘尚幼在家 君為人質直 其自釋褐従事土木者十有四秊 夙夜勉勵累進以至今官 
及没官追賞其功賜以金五百圓 盖特典云君之在病蓐也 僚友故舊訪之毎以野蒜工事為言 而絶無及其私可以見精
誠 奉上之志矣 銘曰
 以橇以檋 于山于澤 勉焉而塞 督工之責
 疊石為堤 波濤所激 随隤随築 克底功績
 厥績厥功 疇云不碩 天弗假年 人擧歎惜
 野蒜之澨 六尺之碑 託名不朽 勒以此辭
内務卿兼參議議定官陸軍中將正四位勲一等
                      山田顕義 篆額
                      晴岳佐久間雅方書 廣群鴻鐫
    明治十七年二月建立


撰文をした和達孚嘉はのちに仙台市長、七十七銀行頭取などをした人。書の佐久間晴岳は狩野派の画家で幕末時には尊王派として奔走した人で、明治初期には漢学塾を開き、また南材木町小学校長(現:仙台市若林区南材木町)などをした人である。

 

(補記)
碑文の中でファン・ドールンは「杜崙」と表記されている。

また碑脇に立てられていた案内板では次のように現代語訳が紹介されていた。

 

                                                          (2010.05.09撮影)

 

内務一等属黒沢(よし)(のり)      宮城県大書記官従六位 和達(たか)(よし)

 明治十六(一八八三)年二月八日、内務一等属黒沢君が亡くなった。同僚達が、その苦労と功績をたたえて、碑を野蒜公園の地に建てることにして、私にその文を頼んできた。そこで資料を基に、その生涯をすべてここに記すことにした。

 君は元の名字を清水といい、名前は(よし)(のり)、幼い時の名前は幸太郎、後に吉太郎と改めた。その先祖は遠江(とおとうみ)(静岡県付近)人である。代々武蔵(むさし)(埼玉県・東京都付近)の江戸に住み、祖父は又次郎、父は瀬兵衛といい、みんな幕府の都料匠(とりょうしょう)(大工頭)であった。瀬兵衛には三人の子どもがあり君はその長男である。父が亡くなり、その職を継いだが、慶応元(一八六五)年五月、幕府が長州(山口県付近)を攻めたときに、君は都料匠として行き、大阪に住んで陸軍築造部下級官としても仕事をし、次に土木工事の工兵(こうへい)嚮導官(きょうどうかん)(指導者)になった。戊辰戦争(明治維新)により、職と給料を失って商人になり、黒沢屋吉之助と名前を変え、結局黒沢という名字にした。

 やがて政府は、君が工事に優れていることを聞き、明治二年八月、採用して土木(どぼく)太令史(たいれいし)に任命した。三年には(ごんの)小祐(しょうゆう)になり、五年には土木権中属(どぼくごんのちゅうぞく)になり、たった一年で中属になって、十年には内務六等属になった。翌年、政府に野蒜築港の計画が立てられ、君に任命して工事を監督させることにした。

 野蒜は陸前桃生郡にあり、北上川がその北を流れ、鳴瀬川がその西を流れていて、石巻の近くにある。東は太平洋に面し、土地が弓形に曲がり、土地自体が港の形になっている。君は、石井土木局長の指示で、オランダの技師ファン・ドールンの意見を基に、運河を開いて北上川を分水し、閘門を造ってその水量を調節し、また、石の堤防を築いて潮の突き上げを防ぐことにした。その工事の規模は大変大きく、その仕事は大変難しく、それを見た人はみんな驚き、心配しない人はなかった。

 しかし、君は全力を尽くして仕事に励み、工事をしている人夫たちの先頭に立って、山で木を切り、海で運送することの指揮をよくしたので、資材に不足することはなかった。こうして運河と閘門の工事はうまくいき、石の堤防も十五年十月に完成したので、内務(ないむ)(きょう)山田(あき)(よし)公が出席して落成式を行った。ああ、人々が驚き心配していたにもかかわらず、工事をやり通せたのは、もちろん、ファン・ドールン氏の計画と仕事をした人たちみんなが力を尽くしたことによるものであるが、君の監督としての仕事の成果もまた大きかった。

 君は、その後数日で病気のため東京に帰り、とうとう現場に戻ることなく亡くなった。享年四十五歳。東京駒込の蓮光寺に葬られた。夫人は須賀という名前で一男三女を生んだ。長男敬三が家を継ぎ、長女はある人に嫁ぎ、その下はまだ幼くて家にいる。

 君は性格が素朴で正直であり、商人をやめてから十数年、朝早くから夜遅くまで仕事に励み、だんだんと出世して現在の地位になった。亡くなった時、政府はその功績をたたえて五百円を与えた。これは本当に特別なご褒美と言えるだろう。君は、病気の時も、同僚・旧友が訪ねるたびに野蒜工事のことばかり話題にして、自分のことを話すことなどなかった。このことから誠心誠意の奉公心がよくわかる。

次にまとめて功績をたたえる。

 

  そりを持って かんじきを持って 山に行き 沢に行き

  努力して果たした 監督としての責任

  石を積み重ねて突堤にした場所は とても波が激しいところである

  くずれては築き上げ がんばって石を積み上げた

  その仕事とその結果は 誰が大きくないと言うだろうか(いや誰も言わない)

  天は彼に多くの寿命を与えなかったと 周りの人は みんな嘆いて残念がった

  野蒜の海岸の 六尺の(高く大きな) 石碑に

  名前をいつまでも残したいと この文章を彫り刻んだ

 

 平成十二年度、浜市小学校では、六年生の「総合的な学習の時間」に地域の歴史資産である「野蒜築港」を取り入れて「野蒜築港とこれからの浜市」についてのテーマで学習し、その中から、町内野蒜在住の郷土史家阿部昭吾氏のご指導のもと、小学生による「紀功の碑 内務一等属黒澤敬徳碑」の解読が生まれました。

 この学習成果と明治初頭の日本人土木技術者の業績に感銘を受けて説明板を設置します。

                平成十六年十一月吉日

 

寄贈  土木学会名誉会員 阿部 壽

協力

    鳴瀬町浜市小学校 浜市区 宮城県石巻工業高等学校土木クラブ

    野蒜築港ファンクラブ 鳴瀬町教育委員会 国土交通省北上川下流河川事務所

 

 

5)石製ローラー

 

 黒澤敬徳碑の傍らに、石製のローラーがコンクリートの台座の上に置かれている。ローラーの側面には「土木」の二文字が刻まれている。ローラーは直径0.61m、巾1.12m。側面には縦横8~10cm、深さ約9cmのホゾがある。
 台座にのったローラーのほかに、もう一つのローラーが傍らにあるが、これは後に運河しゅんせつ工事の際に見つけたものだという。直径0.535m、巾0.96m。

 

 

6)野蒜築港の挫折の要因
 
 野蒜築港が抱えていた問題点についていろいろな分析がなされてきたが、その主なものとしては、次のようなことが挙げられている。

 ●仙台や石巻といった都市から遠い、経済上の原則から離れた場所に築港

 ●調査・計画の不備と技術的な稚拙さ

 ~主任工師ファン・ドールン以下関係技術者は、河川工事において相当の専門学識と経験を有していたが、築港工事については

   経験不足、調査・計画に不備があった~

  ・外港がなくとも内港の運用が可能と判断し、内港整備を優先させた

  ・防波堤に沈床主体の工法を採ったこと、またその長さが不十分

  ・野蒜海岸に対する支配的な波向である南~南東の波を遮蔽できない突堤の配置

  ・漂砂調査が不十分(野蒜は漂砂の影響を受けやすい地)

  ・南東の強風時には、小船(はしけ)による内港との連絡が困難

  ・外港泊地の停泊した本船の荷物を、小船で内港に移送する方式は非効率な荷役

  ・内港突堤の天端高は満潮面と同じ高さのため、越波で小船の航行は危険

 ●汽船時代に移行しようとする時代にも関わらず、河・海運の両面に対応しようとした

 ●まもなく到来する鉄道時代を見通していなかった

 ●建設および修築工事の費用が巨額(松方財政による緊縮政策の推進)

 ●東北地方の経済力、企業力の弱さ

 

(注)上記の内容は、次の資料を参考にしています。
『みなとを拓いた四百年 仙台湾沿岸域の歴史』(運輸省第二港湾建設局塩釜港工事事務所)
『貞山・北上運河沿革考』(遠藤剛人著)
『もう一つの潮騒-仙台湾・みなとのすべて-』(佐藤昭典編著)